海棲昆虫。

都市伝説から、音楽、文芸。

【若山牧水厳選短歌集】牧水歌集から抜粋

今回は、若山牧水の短歌を紹介していこうと思います。

 

その前に、若山牧水とはどんな人物だったかについて、簡単に触れていこうと思います。

 

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宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。

18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、即ち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」

 

若山牧水 - Wikipedia

 

 

それでは、個人的に良かった短歌を紹介していきます。

 

 

蒼ざめし
額つめたく濡れわたり
月夜の夏の街を我が行く

 

 

かもめかもめ
青海を行く一羽の鳥
そのすがたおもひ吸う煙草かな

 

 

わが手より
松の小枝にとびうつる
猫のすがたのさびしきたそがれ

 

 

ただひとつ風にうかびて
わが庭に
秋の蜻蛉(あきつ)のながれ来にけり

 

 

しのびやかに
遊女が飼へるすず蟲を
殺してひとりかへる朝明け

 

 

地にかへる落ち葉のごとく
ねむりたる
かなしき床に朝の月さす

 

 

高窓の赤き夕日に
照らされて
夜を待つわれら秋の夜を待つ

 

 

酒無しにけふは暮るるか
二階よりあふげば
空を行く烏(からす)あり

 

 

我がうしろ
影ひくごとし街を過ぎ
ひとり入りゆく秋植物園

 

 

植物園の
秋の落ち葉のわびしさよ
めづらしくわが静かなること

 

 

動物園の
けものの匂ひするなかを
歩むわが背の秋の日かげよ

 

 

秋の入日、
猿がわらへばわれ笑ふ、
となりの知らぬ人もわらへる

 

 

 

【石川啄木の厳選短歌集4】

今回も、個人的に好きな石川啄木の短歌を紹介していきます。

 

 

小蟻ども
あかき蚯蚓(みみず)のなきがらを
日に二尺ほど曳(ひ)きて日暮れぬ

 

 

青ざめし大いなる顔
ただ一つ
空にうかべり秋の夜の海

 

 

家という都の家を
ことごとく
かぞえて我の住まむ家なし

 

 

銀杏の葉
なかに埋もれし黄楊櫛(つげぐし)も
拾いし日ある山に来てみぬ

 

 

赤煉瓦
ひろく敷きたる大道の
殊にさびしき真昼時かな

 

 

あくがれや
欠けし香炉に思出の
霞(かすみ)焚くなり火に燻りつつ

 

 

夜もすがら壁のこほろぎ
何をなく
冷えしみ心とむらいて泣く

 

 

月明き
秋の海辺のしら砂に
高く笑ひてかなしかりけり

 

 

ふるさとの寺の御廊(みうら)に
踏みにける
小櫛の蝶を夢にみしかな

 

 

形あるもの皆くだき
然る後
好む形につくらむぞよき

 

 

秋の空
廓寥(くわくれう)として影もなし
覚めたる人の心にも似て

 

上の首で出てくる、廓寥(くわくれう)ですけど、(くわくれう)という読み方は昔の読み方で、現代では(かくりょう)と読まれます。

 

廓寥の意味は、広々として物悲しいさま、寂しいさま、です。

 

 

最後の一首!

 

 

いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の砂を
指もて掘りてあり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【石川啄木の厳選短歌集3】

 

今回も、個人的に好きな石川啄木の短歌を紹介していきます。

 

 

 

山に居て
海の彼方の潮騒
聞くとしもなく君を思いぬ

 

 

ちなみに、文末の助動詞【〜ぬ】は、その動詞の完了形(〜てしまった、〜てしまう、〜た)を表します。

 

助動詞【ぬ】には、さらに、もう一つ使い方があります。それは、動詞の連体形の【ぬ】です。連体形とは、名詞の前にくるものです。

例えば、「食べぬ人」という例文の場合は、助動詞【ぬ】が名詞の前にきているので、これは連体形になります。連体形は、その動詞の打ち消しを意味するので、「食べない人」ということですね。

なので、助動詞【ぬ】が、文末にきているのか、それとも名詞の前にきているのかで、前者は完了形、後者は動詞の打ち消しと見分けることができます。

 

 

君を見て我は怖れぬ
我を見て君は笑ひぬ
その夕暮れに

 

 

そことなく
蜜柑の皮の焼くるごとき
にほひ残りき君去りしのち

 

 

ゆるやかに煙草の煙
天井に渦を巻けるを
眺めてありき

 

 

どこやらに杭打つ音し
大桶をころがす音し
夕となりぬ

 

 

手にためし
雪の溶くるが心地よく
我が寝飽きたる心には沁む

 

 

それもよし
これもよしとてある人の
その気軽さを欲しくなりたり

 

 

非凡なる人の如くにふるまえる
昨日の我を
笑ふ悲しみ

 

 

今日もまた
捨てどころなき心をば
捨てむと家を出てにけるかな

 

 

白き皿拭きては棚に
重ねゐる
酒場の隅のかなしき女

 

 

霙(みぞれ)ふる
石狩の野の汽車に
読みしツルゲエネフの物語かな

 

ちなみに、上の首で出てくる、ツルゲエネフとは、19世紀のロシアを代表する小説家です。

本名を、イワンツルゲーネフ

 

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イワン・ツルゲーネフ - Wikipedia

 

上の啄木の首では、霙が降る野を進んでいくという描写に、ツルゲーネフの物語という言葉が出てくることによって、19世紀当時のロシアの荒涼とした大地をも想像させる味わい深い首だと思います。

 

 

 

 

 

最後に一首!

 

しつとりと
水を吸ひたる海綿の
重さに似たる心地覚ゆる

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【石川啄木の厳選短歌集2】

僕が個人的に選んだ、石川啄木の短歌を紹介していきます。

 

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石川啄木 - Wikipedia

 

 

なつかしき冬の朝かな。
湯を飲めば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。

 

 

何となく、
今朝は少しく、わが心明るきごとし。
手の爪を切る。

 

 

うつとりと
本の挿絵に眺め入り、
煙草の煙吹きかけてみる。

 

 

腹の底より欠伸もよほし
ながながと欠伸してみゆ、
今年の元日。

 

 

神様と議論して泣きし
あの夢よ!
四日ばかりも前の朝なりし。

 

 

飴売のチャルメラ聞けば
失いし幼き心
ひろへる如し

 

 

神無月岩手の山の初雪の
眉に迫りし
朝を思ひぬ

 

 

その昔
読みしことある小説に
書かれし如く帰る道かな

 

 

公園の隅のベンチに
二度ばかり見かけし男
この頃見えず

 

 

何がなしに息切れるまで
駆け出してみたくなりたり
草原などを

 

 

ふと見れば
とある林の停車場の
時計止まれり雨の夜の汽車

 

 

家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたけれど

 

 

秋の空
玲瓏として曇りなき
君をおもへば心さびしき

 

 

 

ちなみに、玲瓏。

というのは、玉のように美しく、鮮やかな様をさします。

 




【石川啄木の厳選短歌集 】不幸な文豪の一生

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石川啄木 - Wikipedia

 

石川 啄木(いしかわ たくぼく)
1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)

 

石川啄木は短歌でとても有名な日本を代表する作家です。
その短歌は、学校の教科書にも掲載されている程です。

 

代表歌には、

 

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

 

やはらかに柳あをめる北上の
岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

 

いのちなき砂の悲しさよさらさらと
握れば指の
あひだより落つ

 

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

 

浅草の凌雲閣のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな

 

軍人になると言ひ出して、
父母に苦労させたる
昔の我かな。

 

こんなところでしょうか。

 

 

 

さらに読みたければ、こちらをどうぞ💁

 

書籍を買うのも良いですけど、石川啄木の作品群は著作権切れしているので、インターネットで無料で読むことが可能です。

青空文庫 Aozora Bunko

 

 

石川啄木(本名、石川一)というと、短歌で有名ですが、実はかなり波乱に満ちた不幸な人生を送った作家です。僕が思うに、かの太宰治を超える不幸な作家かと思います。
その石川啄木の悲惨な人生をご覧あれ。

 

 

 

石川啄木の悲しい年表

  1. 少年時代

岩手県岩手郡日戸村に生まれる。

四人兄弟の唯一の男として生まれたため、一家の期待を一身に受け、兄弟で一人だけ優遇される。そのため、時に見栄坊なところがあった。

こんな話がある。

ある冬の寒い夜に、まだ小学生であった石川啄木は、「母さん、おなかへったよ」と夜中に騒ぎ立て、「ゆべしまんじゅうがほしい」と言い出した。

昔のことなので、食料は貴重ですし、ましてや夜中です。

しかし、父親は「ゆべしまんじゅうを作ってやれ」と言い、母親はゆべしまんじゅうを作ってしまいます。

それを見ていた姉達は、さすがに引いた、という石川啄木の優遇話です。

しかし、勉強のできた石川啄木は、村では神童と称されます。

この頃の石川啄木は、身長は低く、おでこがとがっていて、糸切り歯が見え、笑うと右頬にえくぼができるかわいい少年でした。

 

  2.中学時代

中学時代から文学を志した石川啄木は、なんと中学を退学します。

理由は東京に出ようと決めたからです。石川家には経済的余裕がなく、上級進学が不可能だと知っていた石川啄木は、自らの文筆で身を立てる決意をしたのでした。

 

  3.青春の挫折

友人のところを回って金を集めた石川啄木は、岩手県を去り、東京は小石川の大館みつ方に下宿します。

そして、東京に着いた石川啄木与謝野晶子邸を訪問します。石川啄木は自分の文学論を熱心に語っていると、なんと、その与謝野晶子の夫から「君の歌は奔放すぎる」とダメ出しされます。

それから、石川啄木は神田で本を買い漁り、バイロンテニスンロングフェローワーズワース、などの詩集を読みます。時には、一日中読んだそうです。

そんな生活に金が尽きた石川啄木は、職を探します。すると、都合よく友人が、金港堂という雑誌社の佐々醒雪という編集長と知り合いで、金港堂の編集員として、紹介状を書いてくれました。

金のない石川啄木は、飛んで行きました。しかし、編集長の佐々醒雪さんは、面会すら受けあってくれませんでした。

実は、これには深いわけがありました。

というのも、石川啄木は盛岡中学時代に、岩手日報に佐々醒雪さんを、「没見識」「胆の小さい人」と批判していたからです。

自ら批判をした人物の会社を訪ねるほど切羽詰まっていたようです。

 

  4.「あこがれ」刊行

1905年に処女詩集「あこがれ」を刊行。そして、堀合節子さんと結婚。

 

  5.オホーツク放浪

石川啄木は妻を岩手に残し、北海道に向かいます。

北海道では、借金を重ねてしまいます。

しかし、北海道の情景、見慣れない地での葛藤は自作の糧となって行きます。

 

  6.再び東京

「一握りの砂」を刊行。生活を食う独自の文体と、三行書きという形式は、当時としては革新的でした。

 

そして、衰弱の果て、二十六年の人生に幕を閉じた石川啄木

亡くなって、死後作、「悲しき玩具」が刊行されます。

 

 

 

詳しくはこちらから。

 

 

最後に、何種か紹介します。

 

馬鈴薯の薄紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に

 

砂山の裾によこたはる流木に
辺りを見まはし
物言ひてみる

 

浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出て来しさびしき心

 

まれにある
この平なら心には
時計の鳴るもおもしろく聴く

 

何やらむ
穏やかならぬ目付きして
鶴嘴を打つ群を見ている

 

かなしきは
喉のかわきをこらへつつ
夜寒の夜具にちぢこまる時

 

水晶の玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何の心ぞ

 

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日もさまよひて来ぬ

 

 

 

 

 

                     

 

 

 

 

 




浅野いにお 『零落』 コミックス発売日が待ち遠しくて泣ける

浅野いにお先生の『零落』、全1巻が発売決定となりました。

 

 

嬉しすぎる...

 

 

 

 

この作品の存在を初めて知ったのが、コンビニの立ち読み。

 

立ち読みしてたら、いきなり、

浅野いにお!! !

ドン!!!

ドーン!!

 

え?新連載してたの?!

と同時に、『零落』って、タイトルだけで、これ面白いに決まってるじゃんと、思った。

そして、どうやら2話目だったので、ゆっくり本を閉じた。

 

 

 

9月20日現在は、まだ販売されていないので、ご注意を。

 

コミックス発売は、十月下旬だそうです。

 

楽しみ!

 

 

 

 

 こちらもおすすめ!

表紙の色がいいですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 







映画『ゼイリブ』 サブリミナルで人類を支配する存在 それはフリーメーソン?イルミナティ?はたまた?

 

 

 監督、脚本は、ジョン・カーペンターです。

代表作に、『ハロウィン』『遊星からの物体X』があります。

 

SF物です。

都市伝説好きには、おすすめです。

 

 

 

 

軽いあらすじ(ネタバレ含む)

舞台は貧富の二極化が進むアメリカ。

主人公は、職のない流れ者です。

主人公は金が無いので、炊き出しを食って、空の下でホームレス達とテレビを見ます。

すると、豪華なネイルのコマーシャルが突然ジャックされます。

ジャックされた映像には男性が映し出され、男性はこう言います。

「我々の暮らしている世界は人工的な仮眠状態にされています。あるグループが信号が発信されているのを発見したのです。彼らは抑圧的な社会を作り上げているのです。彼らの目的は皆の意識をなくすことです。彼らの目的は人々を欲に目をくらませ、物質主義者にしたてあげることです。彼らは自分たちが生きるために我々を眠りこけさせ、欲に狂わせている。我々は“奴隷”にされているのです」

 

そして、秘密の道具を得た主人公は、サブリミナルや資本社会によって世界を支配する存在に辿り着きます。

それらの支配者は、実は人間の姿をした異形の生物であったのです。

 

 

 

SF作品です。

SF作品なので、フィクションです。(サイエンスフィクションですからねw)

しかし、どこか現実的な感じがします。

個人的感想ですけどね...

 

というのも、今の社会は、実際『ゼイリブ』社会なんじゃないでしょうか。

実際、トランプやブッシュの選挙は選挙工作で情報操作、情報誘導されています。確実な情報さえも分からないという時代です。

さらに、音楽も洗脳の道具だという話もあります。

というのも、ほとんどの音楽は440hzでチューニングされています。

440hzの音というのは、赤ちゃんの泣き声と同じなのです。

赤ちゃんの泣き声は、いち早く親を呼ぶために耳につく嫌な音であるのです。

世の中では、その嫌な音で音楽を作っているのです。

それは嫌な音なんでしょうね。でも、そんなこと言いいながら、僕は音楽を聴いてます。つまり、この中毒性こそが洗脳なんですかね?

そして、人間って日々の生活に追われてますよね。それは、まさに一度登ったら降りられないエスカレーターみたいに。

 

監督自身は、「この作品は資本者階級のヤッピー達を揶揄した映画に過ぎない」と言っていますが、実際どうなんでしょう。

 

 

映画『ディアボロス』でも、支配者階級のレプティリアンの存在が小出しにされています。

 

 

最後に、

『THEY  LIVE            彼らは生きる

   WE       SLEEP』    我らは眠る

 

ゼイリブ』に出てきた言葉です。

 

彼らとは誰なのか?

 

人類は彼らに支配されているのか?

 

彼らとは、フリーメーソン? それとも、イルミミナティ?

ゾルタクスゼイアン?  それとも??

 

 

彼らとはだれか、何か新しいことが分かり次第、また書きたいと思います。